牧田真有子「彼の見知らぬ顔」―連載〈泥棒とイーダ〉第6回

 天へとまっすぐ伸びる竹藪の底に美術館は沈んでいる。平らな屋根の二階建てだ。菱形の壁タイルに不規則にはめ込まれたガラスブロックは透明なのに重たげで、時が静止した館内を隠しているような感じがした。だが一歩内部に入ると、温かくてすみずみまで手入れが行き届いている。
 カーペットは佐原さんと私の足音を次から次へと吸った。来館者は我々だけだ。第二展示室を出て階段へ至る小さなスペースには何も載っていない黒い石の台座があり、一枚の紙が貼られている。
『こちらの作品は心ない者によって盗難に遭いました。皆様からの情報をお待ちしております。お心当たりのある方はお知らせくだいますようお願いいたします』
「『さ』が抜けてる」
佐原さんは十四年の間に色褪せた貼紙へ囁くような声で校正した。キャプションには「『無題V』黒井澄華」とある。すらりとした長い光が窓から差し込み、空っぽのガラスケースと、佐原さんの頑なそうな横顔を照らす。彼が肩からななめに掛けているショルダーバッグの中に、『無題V』は入っている。
 咳払いしたくなったが我慢して秒を数えた。彼は両手をウィンドブレーカーのポケットに突っ込んだまま九秒佇んでからぶらぶらと歩き出した。心ない者という文句は佐原さんにうってつけである。
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 牧田真有子さんによる〈泥棒とイーダ〉第6回「彼の見知らぬ顔」をお届けします。


 勝見亜季はふつうの高校1年生。命の恩人でもあるアラサー男子・佐原さんとついに付き合うことになった。けれど、「恋人」という出来合いの言葉で呼ぶには、2人の関係は不安定で不穏すぎた。
 ただ一緒にいる時間は増え、佐原さんのいろんな表情を見ることができた。若いころの記憶、助けを求める声、見知らぬ人のような顔…。
 一喜一憂する亜季だったが、イーダ会との接触も増える。中心人物の室木は「理想の居場所」を作ろうと奔走し、対してセツは独自の思惑で動く。
 亜季の周りに寄せ集められた断片が、一つの影を形作る。
※この連載は基本的に、隔月でお届けします。


牧田真有子(まきた・まゆこ)
80年生。「椅子」で「文學界」新人賞奨励賞を受けデビュー。人が抱く寄る辺なさと、世界が孕む不確かさを、丁寧にすくいあげ描きとる。主な作品に「夏草無言電話」(「群像」09年5月号)、「予言残像」(「群像」10年6月号)、「今どこ?」(「WB」20号)、「合図」(「早稲田文学記録増刊 震災とフィクションの“距離”」)など。