牧田真有子「ここに居てもいい資格」―連載〈泥棒とイーダ〉第5回

 翌朝史乃と顔を合わせてようやく、そういえば彼女はどこまで見ていただろうと思った。あのあと、対岸の手すりにぶつかるようにして摑まった私が、腰を抜かしそうになりながら柵の内側へ戻ると彼女の姿はなかったのだ。足ががくがくしてまともに歩けなかった。屋上の真ん中まで這っていった私は、冷えたコンクリートの上にしばらく寝転んで体がまとまるのを待ち、家に帰った。
 飛び移る最中の、自分の裏側の一点にすっと吸いとられて全部が閉じるような感覚。一晩経った今も、ややもするとよみがえってくる。
 一時限目は英語だった。私は机の端に辞書を置いて着席していた。忘れてきたらしい史乃が、私の目の前で悠々と私の辞書を持ち去ろうとした。その手首を摑み、辞書を奪い返して私は言った。
「ありがとう、もういいの」
 は? と史乃は少しかすれた声で言った。悠然として見せていても気持ちはやはり、昨日の出来事に引っ張られているのがわかった。もう一度彼女は辞書に手をかけた。私は辞書から手を離さなかった。史乃は一度力を緩めてから全力で引っ張るというフェイントめいた行為にまで出た。私はするりと手のひらから抜けそうになった辞書に、空中で追いついて両足を踏ん張り、相手の十本の指からもぎとった。机の定位置に辞書を戻して言った。
「ありがとう、もういいの。史乃に借りを作ったことは絶対覚えておくから」
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牧田真有子さんによる〈泥棒とイーダ〉第5回「ここに居てもいい資格」をお届けします。


 勝見亜季はふつうの高校1年生。同級生の史乃のしつこい攻撃も、屋上の柵越えと跳躍事件のあとにはもうなかった。そして亜季は、自分が進もうとする方向を理解しつつあった。
 一つは、イーダ会。生きづらさを抱える人たちの集まりだ。メンバーの一人、ミステリアスな女性・セツに誘われ、深入りしてゆく。
 もう一つは、佐原さんとの関係。一緒にいられる、でも愛情とはちがう曖昧な2人の関係はどこへ行くのか? そこへ、同級生の沼男も急接近する。
 亜季の選択が、いくつもの選択を連鎖し、景色を変える。
※この連載は基本的に、隔月でお届けします。


牧田真有子(まきた・まゆこ)
80年生。「椅子」で「文學界」新人賞奨励賞を受けデビュー。人が抱く寄る辺なさと、世界が孕む不確かさを、丁寧にすくいあげ描きとる。主な作品に「夏草無言電話」(「群像」09年5月号)、「予言残像」(「群像」10年6月号)、「今どこ?」(「WB」20号)、「合図」(「早稲田文学記録増刊 震災とフィクションの“距離”」)など。