渡邉大輔「からだが/で観る映像史」―連載〈イメージの進行形〉第4回

 前回、私たちは、現代の映像環境の歴史的帰趨を跡づけるために、映画史研究が注目する、いまから100年以上も前、「初期映画」と呼ばれる時代の映画の備える表象システムと、かたや「ポスト古典的」とも称される80年代以降の現代映画、そして、ニコニコ動画からコンシューマゲーム、ARにいたる21世紀の新たな映像系コンテンツ(メディア)のそれとの並行性を辿ってきた。繰り返しておくと、それらの一見相異なるコンテンツたちは、一様にその表象や受容空間じたいが持つ「アトラクション性」(現前性)という特徴において共通している。そうした複製イメージの孕むアトラクション性――映画研究者トム・ガニングのいう「驚きの美学」――とは、いってみれば、イメージの受容主体=観客のいるその場の文脈とも密接に結びつきながら、彼らにショックや神経的・生理的興奮を惹起するきわめて「身体的 physical」な情動効果に訴えるものであった。
 例えば、前回紹介した汽車活動写真や連鎖劇、そして、活弁や楽隊の実地的なパフォーマンスなどを楽しむ初期映画の観客の特殊な「映画(的)体験」は、暗闇の中で静かに席に固定されながら、いわば純粋な「まなざし」そのものと化してイメージを享受する20世紀のオーソドックスな映画観客像に比較して、(テーマパークのアトラクションやWiiで遊ぶ現代人のように)はるかに彼らの「身体」や「生理」の微細なホメオスタシス代謝作用)にこそ依拠し、またそれに終始全身を貫かれていたといえるだろう。そこで、今回は、映像圏システムの重要なエコノミーを下支えする観客身体や身体イメージの問題に改めて焦点を当て、さらにいくつかの具体的な論点を付加しておこう。
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 今回は上の論文冒頭にあるように、観客の身体から、またはキャラクターの身体から考える映像史を展開します。
 映画研究の劇的なパラダイム転換をおさらいし、ジル・ドゥルーズ東浩紀が語る2つの身体をつなぎ、作品の内と外をシームレスにつなぐ『劇場版 神聖かまってちゃん』(入江悠監督)の特異な身体を見出すまでが前篇。 そこから初期映画と理想的な身体の関係へと遡り、映画黎明期のトンデモな(性)医学に驚嘆し、さらにはアダルトビデオの劇的な歴史を追いかける後篇、と時空間を跳び越えジャンルを跨ぐ現代映像論、大盛り上がりの第4回です!