渡邉大輔「フィルム・ノワールの現代性」―連載〈イメージの進行形〉第5回

 今回はまず、新たな主題に入る前に、過去二回の映像=身体の問題系をめぐって、前回の最後につけ加えようと思いながらも、筆者の配分ミスで取りこぼしてしま�た一つの注目すべき論点をなるべく簡潔に補足しておきたいと思う。
 行論を再度繰り返すならば、初期映画から現代の映像コンテンツにいたるまで、主に二〇世紀以降の複製イメージ文化の一部では、「観客身体」の微細な生理的反応システムがひとびとのイメージ受容のプロセスにきわめて重要な意味を担�っていた。そして、「物語」の機能を重用する古典的映画の表象体制を初期映画期同様に払拭した現代映画の生育環境――すなわち、「映像圏」の今日的状況においては、それはとりわけ以前よりも中心的な役割を担いつつあるのではないか、と論じてきた。過去二回の論述では、ひとまずそのことを個別具体的なトピックを通じて随時示してきたわけだが、ここでそうした古今にわたる映像圏システム独特の表象モデルを大きな歴史的視野を以て抽象している言説にも触れて議論を仮留めしておくべきだろう。それは、映画を含めた、現在の近代視覚文化史研究においてはもはや古典的地位を獲得しているといってよいだろう、ジョナサン・クレーリーによる一連の議論である。
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from editor

 前々回は、今ぼくたちが観ている物語映画のフォーマットをつくったといわれる古典的ハリウッド映画(1917-1960年)と、それ以前に製作された初期映画(1894-1907年)について見てきました。
 そこで今回は、古典的ハリウッド映画の隆盛と崩壊の傍らで製作され、現代につながるひとつの流れとなった犯罪メロドラマの作品群、すなわちフィルム・ノワールを扱います。
 フィルム・ノワールは、その多くが、レイモンド・チャンドラーなどの同時代のハードボイルド探偵小説を原作としています。タフな探偵である主人公が、蠱惑的なファム・ファタール(運命の女)に翻弄される物語。チャンドラーの小説(あるいはずっと後につくられた村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)を思い浮かべてもらえればわかるとおり、ハードボイルド小説は探偵の一人称を採用しています。それらを原作としたフィルム・ノワールも当然、一人称=主観ショットを特徴のひとつとしています。
 それが、現代へとどのようにつながるのか? 本篇で確かめてください!
(この連載では、言及される映画を観たことがない人でも楽しめるよう、各種動画へのリンクを貼っています。作品名をクリックしてみてください。)


渡邉大輔(わたなべ・だいすけ)
映画研究者・批評家。日本大学芸術学部非常勤講師。専攻は日本映画史。共著に『探偵小説のクリティカル・ターン』『社会は存在しない』『サブカルチャー戦争』(以上、南雲堂)、『本格ミステリ08』(講談社)、『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)、『floating view  郊外からうまれるアート』(トポフィル)、『日本映画史叢書15   日本映画の誕生』(森話社、近刊)。
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