牧田真有子「おざなり少女と刺青の男」―連載〈泥棒とイーダ〉第2回

 雨音に金属の響きがまざる。鉄のはしごを傾げたような簡潔な造りの階段を佐原さんは降りてきた。細いというよりぎゅっと固めたような瘦せ方で、芯に重みがある。薄茶色いズボンの裾をたくし込んだ黒の長靴が、私の頭の高さへ至り、太ももの位置に達し、私のびしょびしょの靴と同じ地平にまで降り立った。
 一体何の用があって来たのか問うまなざしを彼が振り向けているとわかっていた。だが私は彼の顔を見られなかった。相手から逸らした目に、青黒く濡れた路地を一足飛びにして、その向うの商店街の灯りがはりついてくる。佐原さんはまだ中身の入っていないへなへなのエコバッグをぶら提げ、長靴を鳴らしてそちらへ歩いていく。壊れた扇風機や自転車が投げ込まれていれば濁流の川にでも突進するくせに、そういえば普段の彼は潔癖症なのだった。きっとズボンへの泥ハネにも目くじらを立てるのだろう。
 悪寒がしてこめかみを押さえた。指先に泥がついている。さっきまでバトンみたいに摑んでいた男児の靴から移ったのだ。
 帰路につく途中、私はスーパーマーケットのトイレで泣いた。泣けて泣けてどうしようもなくなった。芳香剤の匂いが鋭くたちこめる個室で、突っ立ったまま声を殺してしゃくりあげた。痙攣的な息遣いをもう自分の意志ではとめられず、時おり体の向きだけくるくると変えた。
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牧田真有子さんによる〈泥棒とイーダ〉第2回「おざなり少女と刺青の男」をお届けします。


勝見亜季はふつうの高校1年生。幼い頃にある男に命を救われたことがあり、それがいまでも心の支えになっている。
その恩人の佐原さんは、ぶっきらぼうでドS気味のアラサー男子。日課は人助け、と言うにははた迷惑な善行。

そんな佐原さんを慕う亜季。けれどある日、佐原さんが言い放つのは、
「死にたいときは死んでくれ」
という言葉だった。
亜季はショックを受け、佐原さんの真意を問うこともできなかった。

その日から、亜季の世界は急に色褪せていく。学校の授業も、文化祭の準備も、クラスメイトの親しみも、何もかもが面倒に感じられてしまう。
そんなとき亜季の前に現れた、「イーダ会」という同好会のビラを配る男。そして亜季を執拗に詮索するクラスメイト。

支えの外れた少女の世界が、急速に変わっていく。
※この連載は基本的に、隔月でお届けします。

牧田真有子(まきた・まゆこ)
80年生。デビュー作「椅子」(「文學界」07年12月号)から一貫して、どんなことでも起こりうる世界と偶然ここにいる自分に戸惑う人物が、自己の座標を測りなおす瞬間を描く。ちょっとボンヤリした主人公とエキセントリックなパートナーのコンビが魅力。