雅雲すくね「民衆食堂百万年」―連載〈蛸親爺〉第9回

 裏町の短い商店街、民衆食堂と墨で大書きにした暖簾の下では、木枠の入口に曇りガラスをはめ込んで、一枚には仮名で『めし』、一枚には真名で『酒』と派手に書いてある。両脇には大小の植木が鉢も見えぬほどに寄せて置かれているのが、夕日影を受け赤く染まる。
 狭い店は、両側に化粧合板のカウンターが作られ、座面がドーナツ状に穴の空いた扁平な椅子が五、六ずつ並ぶ。左手のカウンターは厨房をかこみ、なかでは古びた白衣を着た親爺が、お玉を手にしたまま腕を組んで、出入口脇の壁につけたテレビを見上げている。テレビは相撲を映す。親爺はテレビに向かって、「よし」だの、「ああ」だの繰り返している。客は蛸のみ。とろりとして奥にあり。
「たーこ、たーこ、たーこたーこ」
 蛸の前には味醂の一升瓶が立つ。飯茶椀に注ぐ。口に含む。
「うめえなあ。本当にうめえなあ。でも味醂だから、おれあ酔ってねえぜ」
「な、そりゃいけるだろ。明るいうちから酒はよくねえからな」
「口当たりが滅法いいね」と蛸は舌鼓を打つ。
「下手な酒よりずっといけるだろ」と鍋を一混ぜすると、縁をお玉で二、三度叩いた。
「おう、部屋に鍵をかけて一人で飲んだら、たいへんな酔い方をしそうだ」と蛸は言いながら体をひねって、水槽へ頭を向けた。底に砂利を敷いて水草が植えてある上に、金魚や目高の類が揺れている。
「昨日よ、店を早めに閉めて荒木町へ飲みに行ったのよ」
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雅雲すくねさんによる〈蛸親爺〉第9回「民衆食堂百万年」をお届けします。
※この連載は基本的に、毎月更新でお届けします。

雅雲すくね(がうん・すくね)
71年生。「不二山頂滞在記」で第21回早稲田文学新人賞を受賞。脱力系の文章と奇想が魅力。6年以上の冬眠期間を経て、本作の連載開始。